ヴィリオン神父と浦上流配信徒

カトリック再宣教の夜明け

京都司教 大塚喜直

「浦上四番崩れ」という明治初期の迫害を通して、カトリックの日本再宣教がどのように展開されていったのか、そのパイオニアとして活躍した、パリ外国宣教会のエメ・ヴィリオン神父の視点からお話ししたいと思います。
日本の再宣教とは
ヨーロッパでは18世紀から日本の殉教者の記録が出版され、フランスではとくに禁教下の日本ために再宣教を祈る機運が高まっていました。そのような背景の中で、250年ほどの禁教を経て1862年横浜に教会(天主堂)が建立されたことをもって日本の再宣教の起点とします。同年、日本26聖人殉教者が教皇ピオ9世によって列聖されたのも、このような事情を踏まえてのことと思われます。
ヴィリオン神父たち宣教師のおかれた状況
近代化のプロセスを歩み始めた日本において、支配層や知識人は西洋事情にいち早く接し、文明開化を追い求めていたが、キリスト教(耶蘇)への反感は相変わらず根強いものがありました。加えて、パリ外国宣教会のカトリック宣教師たちは、幕末以降に来日したプロテスタント諸派やロシア正教会と競合を余儀なくされ、16世紀のキリシタン時代とは大きく異なる時代環境で宣教しなければなりませんでした。ヴィリオン神父は、人々からのキリスト教への反感と妨害に直面しながら困難な時代を拓いていったのでした。
「浦上四番崩れ」の歴史的意義
浦上四番崩れという出来事は、信徒たちに大きい犠牲を払いましたが、日本の再宣教の夜明けとなり、その後のカトリック宣教の発展に寄与する結果となりました。
流配地の地理的拡大
浦上信徒の22か所の流配地は、名古屋以西の西日本に点在しています。現在の名古屋、京都、大阪、高松、広島の大阪管区と鹿児島教区です。ヴィリオン神父と浦上流配信徒との関係を見ていくと、流配そのものが、のちの西日本でのカトリック宣教の地理的下地を作ったと言えます。パリ外国宣教会が徐々に宣教の拠点を拡大していくのに合わせて、ヴィリオン神父は長崎から、神戸、京都、山口、萩と活動の拠点を移動し、流配信者たちと深いかかわりを持つようになります。特に神戸は、大阪・京都に近く、関西および中国・四国地方からちょうど中心に位置したことが、摂理的にヴィリオン神父と浦上信徒との出会いを生み出しました。
流配信徒の信仰のあかし
流配信徒の信仰の証しと振る舞いは、250年間キリスト教につけられた「邪教」という偏見を持つ人々の心象を和らげました。取り調べを行った神官や役人たちは、浦上信徒たちが明快に答える教えに感化され、のち洗礼を受ける人も出てきたりしました。
流配信徒が伝道士になる
流配信徒の中には、解放後も流配地に戻り、宣教師を助け、伝道士となる人もありました。明治初頭に、外国人が家を借り、旅をすることさえ困難でしたが、日本人信徒の協力のおかげで、初期の宣教が進展していきました。


(ヴィリオン神父の日記から)
エピソードの数々
(神戸におられた神父に会いに)
和歌山から歩いてやってきた信徒二人は「肉の飢えはたとえ味噌ひとなめで辛抱できますが、心の飢えは辛抱できません」と語った。
金沢から雪の中を歩いてクリスマスの時にやってきた信徒は金3両のお金を差出し献金したいと言いました。その信徒はずーと牢屋に閉じ込められていたのではなく、自由時間もあり、藁草履を作るといった内職もしてお金を得ていたようです。神父は震えるほど感動。
阿波、土佐、高松からも信徒たちがご聖体をいただきたいと訪ねてきました。そして残っている信徒たちのためにロザリオや御絵を欲しがったということです。神父は彼らの苦労話を聞き、励まし、元気になって流配地へ帰って行った。
津和野から二人の信徒が来て、「棄教した仲間を許してほしい」と赦しを請うその信仰心の厚さに感動。
明治6年、禁教の高札が撤去されたときに神父は「記念や」と高札を抜いて(盗んで?)パリの本部に送った。 (文責・編集部)
※「でめきん」(2019年1月1日号より転載)