浦上信徒大和郡山流配記念ミサ説教 浦上信徒たちの「旅」は一粒の種

京都司教 パウロ大塚喜直

今年は明治維新から150年です。キリシタン時代の殉教者たちも、禁教下で250年間潜伏し、脈々と信仰を伝えた数世代の信徒たちも、みないのちをかけて信仰を生きました。
そして、再来日を果たした宣教師を迎え、当時の教皇ピオ9世が東洋の奇跡と呼んだ信徒発見の出来事につながったのも束の間、再び激しい迫害にさらされた長崎浦上の信徒たち。
その同じ信仰の血が、現代のわたしたちに流れていることを、けっして忘れることはできません。今、わたしたちは、ザビエルの来日から始まった日本の宣教の歴史を振り返えるときです。

今日は、大和郡山に流配された浦上信徒14家族、86名の苦労をしのび、その間亡くなられた4名の方々の冥福を祈ります。


キリシタン時代には、『マルチリヨの心得』がよく知られていました。そこには、たとえ処刑による殉教でなくとも、流罪に処せられる間に死ぬ、または牢屋の難儀を耐え抜いて死ぬ。そのほか、いずれの場所にあっても辛労難儀の道により死ぬことはマルチリヨ(殉教)である」と教えていました。


流配先で死亡した信徒たちは、津和野のように拷問を受け、文字どおり殉教した人もいれば、高齢や病気のために死亡した人もいますが、『マルチリヨの心得』にある通り、流配先で死亡した4名も、また殉教者と言えるでしょう。

柳澤藩は流配信徒の受け入れ当初、他の厳しい扱いをした藩に比べると寛容な扱いをしたことを、いまさらながら感謝したい気持ちです。風呂に入れさせ、火鉢をあてがい、旅館の炊き出しの食事も与えられ、その後の金崎の旅館など、りっぱな所に移され高遇したとあります。

しかし藩主の思いやりにもかかわらず、政府から巡察の圧力もあってか待遇は悪化し、のち男子は天の川銀山(現:吉野郡天川村)で労働させられたりして、食物は不足し、寒さに震え、老人や病人は特に多難な生活を強いられました。それだけに、明治6年の解放令が出て、故郷、浦上に帰ることができたときは、どれほど嬉しかったことでしょう。

生き残った信徒たちは、流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、浦上であらたに信仰を力強く生きていきました。あの浦上天主堂は、すべてを失っても、それでも迫害が終わったことへの喜びと感謝と信仰の力強いあかしです。


「殉教者の血は、キリスト信者の種」という教父の言葉がありますが、浦上の信徒たちは殉教者も含めて、みな後の「キリスト信者の種」となったのです。

今日の福音は「一粒の麦」です。これは、第一にはイエスご自身を指します。ご自分の十字架の死を、「多くの実を結ぶ」ための死と理解していることを弟子に説明されたものです。
古代人は、種から芽が出ることを、種が死ぬと考えました。種としてのいのちが死んで、芽や茎や穂としてのいのちが始まると考えていたのです。殻が壊れる様を死ととらえ、種の内側からの殻を破ぶり、成長する様が、死と新生であると考えました。

そういうわけで、麦は死ねばその後に芽をだし、必ず多くの実を結ぶという、多くの人の新しい生き方に焦点があります。「一粒の麦」は正確な翻訳ではありません。ギリシャ語原点には、「一」という数詞が無いからです。文法的には、「麦の粒全般」という意味です。

つまり、わたしたちは、誰でも、麦の粒、種であり、それぞれ自分の生涯を通じて、回心して新しい生き方を重ねて十字架の道を歩めば、最後に復活の恵みを受けることができると約束されているのです。

パウロは、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマの信徒への手紙8章18節)と言います。浦上信徒たちの苦難と信仰のあかしが詰まった「旅」は、信仰の種です。忍耐強く抵抗して,その生き方,信念を貫いて、信教の自由を勝ち取り、のちのキリスト信者の実りをもたらしました。


現代日本にはキリスト教の迫害という状況はありませんが、目に見えないものを希望する信仰を一貫して持って生きることは、おろかで意味がなく、あたかも間違っているとさえ言わんばかりの風潮です。これこそが、現代の見えない精神の迫害なのです。このような時代の雰囲気や生き方が、今の教会の中にも忍び込んでいるように思えます。

広島教区の津和野・乙女峠でいのちをささげた37人の列聖運動も、わたしたちキリスト者が社会の中で勇気をもって福音を証する使命を真摯に受けとめるよう神が与えてくださっている大切な機会なのです。


郡山で流配中に亡くなった信徒のための祈りを捧げるとともに、津和野の殉教者の列福をお祈りいたしましょう。
 

※「でめきん(2019年1月1日号)」より転載

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